見慣れた景色と記憶の輪郭を更新していくこと

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吉岡恵美子
カタログテキスト:
“Why don’t cats wear shoes?” 2020

 

見慣れた景色と記憶の輪郭を更新していくこと

自らの私的な生活範囲から社会的領域までを見渡しつつ、見慣れたものを介在させながら私たちの認識や感覚を更新するヴィジョンを提示する広瀬菜々と永谷一馬。2007年以降ドイツに暮らし、様々な素材・技術を駆使した彫刻やインスタレーション作品を手がけてきた。食べ物や食品容器などの日用品から型取りし、焼成中の変形をあえて生じさせた磁器のオブジェ群、プレッツェルを大量につなげてガーラーンドのように壁に留めた作品、包装紙や絵葉書を折って自分たちの家の形に立ち上げた立体作品などで知られている。これらの作品に共通するのは本来とは異なる素材やスケールに置き換えてそもそもの機能を失わせること、細やかな手作業で新たなフォルムを作り出すこと、それらを大量に並べることで展示空間全体を変容させること、そして作家の視点と鑑賞者の記憶や経験とがクロスするとき感覚や感情の静かな化学反応が起きることだといえる。
私が彼らと協働したのは、新潟県十日町市で3年おきに開催される「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の会場のひとつ、枯木又という小さな集落での2018年のプロジェクトであった。豪雪地帯で知られるこの地域は過疎化が進んでいて、枯木又には主に農業に従事する8世帯のみが暮らす。集落の中心にたたずむ廃校となった小学校とその周辺の屋外空間で展開するプロジェクトのキュレーションを私が手がけるにあたり、広瀬と永谷にも参加を依頼したのだ。
母国での大規模な展示に際し、彼らは小学校の教室3部屋と廊下の床面に銀色のミラーステッカーの切り文字を貼り巡らした。その文字は、長きにわたり日本の小学生3年生の国語の教科書に掲載されてきた新美南吉の童話『手袋を買いに』(1933)を全編引用したものであった。雪深い森に住む子狐と町の人間との出会いを描いたこの物語は、この地域の自然や人々の暮らしと重なる。さらに彼らはこの小学校でかつて使われていたボールや楽器、実験器具などの備品を天井から吊り下げ、童話の雪景色と今や無人となった小学校に眠る記憶とが交錯するインスタレーション《Classroom》を作り出した。窓の外から射し込む夏の光や、木々の緑がちらちらと映り込む銀色の文字の上を彷徨いながら、鑑賞者は過去・現在、冬・夏、現実・虚構の時空を行き来する。
第三室の奥まで歩を進めると、この物語の最後に母狐がつぶやいた言葉「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」の文字が足元に見えてくる。広瀬と永谷は、「場」や「童話」を通じて私たちにノスタルジックな記憶を再生させるだけではなく、本質的な問いかけをこの作品に託したのではないだろうか。こののどかで美しい田舎にも現代社会の様々なほころびは見え隠れするし、限界集落ぎりぎりの枯木又に現代美術愛好家たちが3年ごとに何万人も押し寄せる現象についても私たちは考えざるを得ないのだから。
2018年の《Classroom》および2019年のクックスハーフェン、ゲッティンゲンでの個展で発表された《Why don’t cats wear shoes?》は、彼らの表現世界の新しい方向性を示しているといえよう。まず、両作品とも、空間に「作品を置く」のではなく「空間自体を作品にする」度合いが高まっている。次に、細やかな手作業で生み出されるオブジェを作品の中心に据えるのではなく、テキストが作品の重要な要素として登場している。さらに、テキストが示唆する内容が鑑賞者の身体的体験を経て思考や想像を膨らませる仕掛けが込められている点である。
《Why don’t cats wear shoes?》では、「なぜ水は湿っているの?」「なぜ星は空から落ちないの?」「全ての世界が夢じゃないってどうやって確かめるの?」といった子供たちの問いの文章がシルバーのカッティングシートで展示室の床全面に貼られた。広瀬と永谷がインターネットで探し集めたこれらの質問は、身の回りのことから壮大な次元にまで及ぶ。時には発想の無邪気さにクスリとし、時には思わぬスケールの大きさにこちらの思考が停止する。鑑賞者はこれらの質問を目だけで追うのではなく、自らの身体を移動させながら問いを探し捉えていく。一文字のサイズが大きい上、文字が連続して並び、文末のクエスチョンマークのみが文の区切りの手がかりとなるため、枯木又の作品同様、ここでも「身体で読む」ことが促されているのだ。
本作品では、いくつもの赤いりんごがテキストの上に置かれたことにも注目したい。ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけとなったとされる「落ちたりんご」を想像させる床の上のりんごは、本インスタレーションでは哲学・美学上の要であると同時に、概念が生きた実体を伴って見る者へと伝わる接続点となっている。日本には、主人公の少年がテーブルの上のりんごを見て「これは本当にりんごなんだろうか?」と様々な哲学的な問いと疑いを重ね、想像を膨らませていく絵本がある。絵本の最後で少年はりんごにかぶりついて実体を確認するが、そこから再び彼の新たな問いの旅が始まる予感で物語は終わる。《Why don’t cats wear shoes?》に足を踏み入れた鑑賞者は、子供たちが発した大胆な問いの連続を体当たりで受け止めつつも、床に点在する見慣れたその果物を視野の片隅に入れることで、絵本の少年とは逆に「りんごはりんごだから」と意識化し、このラビリンスの中で「現実」や「常識」との接続を保とうするのかもしれない。
身の回りの些細なことから哲学的な次元に及ぶいくつもの質問がインスタレーションを体験する鑑賞者の前に現れるという点では、スイスの作家ペーター・フィッシュリとダヴィッド・ヴァイスの作品《質問》を参照することもできるだろう。《質問》では「ぼくが留守のとき家のなかはどうなっているんだろう?」「どうしてみんな急に親切になるわけ?」「ぼくの何パーセントが動物なのかな?」といった短い問いが10台以上のスライド・プロジェクタから展示室の壁に映し出されては消えていく。フィッシュリとヴァイスと同様、広瀬と永谷も日常の出来事やありふれた日々の光景が実は思索に満ちていて、私たちの捉え方ひとつで新しい感覚の扉が開かれることを示そうとしている。
広瀬と永谷のクックスハーフェンの個展では、《Why don’t cats wear shoes?》の展示の次の部屋に、日用雑貨や食品の形をした白い磁器のオブジェが長いテーブルの上にいくつも並ぶ《Still Life》が配置されたことも興味深い。実物からとった石膏型で成形すればオリジナルと同じ形をしたものがいくつも作られるはずだが、これらの物体は不自然に傾き、それぞれどこか不恰好につぶれている。磁器でありながらゴムのように見える質感も違和感を漂わす。前室で思索的なラビリンスに誘い込まれた鑑賞者は、ここでさらに見慣れたはずの現実が奇妙なヴィジョンに差し替えられた空間を体感する。

AIによる物体認識や言語解析、モノとインターネットとが繋がるIoTが急速に進化・普及していくただなかで、今なおさら、日常や現実といったものの輪郭や根拠を創造的に問い直し、「いま・ここ」の身体感覚に加え「かつて・どこか」の記憶や想像を、豊かに、鋭く形にする芸術の力が必要だと感じている。広瀬と永谷は異文化間を移動しながら、手を動かしながら、言葉の意味を思索しながら、目の前の日用品や日常の世界を見つめながら、制作を続けてきた。彼らの作品の軽やかで越境的、そして価値や意味の曖昧さを問いかけるこれまでの作品に惹かれているのはそういった状況も影響しているのかもしれない。記憶とイメージの迷い込む先や、自分と他者がいた(いる)かもしれないどこかの場所を形にし、見慣れた景色や記憶を更新していく彼らの旅をこれからも垣間みたいと願っている。